みなさん、自動車評論家のレビューは好きですか?僕は昔は好きでしたが、自動車業界に就職してからは段々と嫌いになりました。その理由についてはこちらの記事をご覧ください。
要するに自動車評論家があまり好きではありません。彼らはあまりにも読者を蔑ろにし、薄っぺらい内容の記事ばかりを書いているからです。そのため僕は自動車レビュー動画や記事を読む際は事実のみを参考にし、評論家の言ってる抽象的なワードは信用しないようにしています。
今回は評論家がよく使う抽象的なワードの代表例を共有しましょう。自動車を検討されているみなさんの参考になればそれ以上に嬉しいことはありません。
※なお、偏見を多分に含みますので気分を害されても問題ない方のみ読んでください
①頻出のパワーワード「剛性感」
「剛性感」および「剛性」は最も連呼されているワードで、かつ、何を意図して言っているのかわからない用語No.1です。レビュワーがこの剛性感に言及し始めたら萎えます。たとえばこの記事をご覧ください。
背の高いミニバンということもあり、130km/h巡航のカーブでは確かに重心の高さを感じはする。しかし、そのサスペンションは粘りと剛性のバランスがよく、巧みにボディーを支えながら姿勢を安定させ、路面のうねりさえもフラットにクリアしてくれる。さらにトゥーランには「DCC」(アダプティブ・シャシー・コントロール)が備わっている。日本だとこれがお遊びの道具程度にしか思えないことも多いのだが、この地だと、そして背の高いトゥーランだと、車両のスタビリティーを確保するデバイスとして本当に有効なのである。
サスペンションの粘りと剛性のバランスとは何なのでしょうか?執筆者にはぜひ技術者の気持ちになって考えてみていただきたい。「サスペンションの粘りと剛性」を適切に設計しようと思ったら、どのパラメータをいじって何をアウトプットとして評価すればいいか考えたことはありますか?そんなものは存在しないので評価できないのはわかりますよね。「粘りと剛性のバランス」などといった抽象的なものは技術者は微塵も考えておりません。いい加減な記事を執筆するのは控えていただきたいものです。
そもそも剛性に優れるとはどういう状態のことでしょうか?一般に「剛性が高い」とは同じ応力が印加された時に変位量が少ないことを指します。
上記のように評論家は「ボディの剛性」という表現を多用しますが、何をもってそれを感じているのでしょうか?大抵の場合は乗り心地で判断しているように見受けますが、それで極めて微小であるボディの変位量がわかるのでしょうか?
もしそれで剛性を感じられるのなら、極めて小さなボディの変位と比較的大きく動くサスペンションの動きを切り分けて感じられているということになります。普通の道を走行するだけならボディは変位したとしてもmmオーダーでしょうし、サスペンションがどれだけ大きく動くかは目で見てわかるくらい明らかです。こう言った評論家は
剛性感があり、サスはしなやかに動く
などとよく表現していますよ。こんなことが運転席に乗っているだけの人間にできると思いますか?できるわけありません。自分の都合いい解釈で勝手に変位をボディとサスに好きなように振り分けているだけです。こんな抽象的な表現は全く信用できません。
もし剛性を定量的に見るのなら、衝突安全試験の結果が妥当ではないでしょうか?同じ衝撃を与えた時の変位量を見るのであれば、乗ってみた感触で剛性を論じるより遥かに合理的です。それにカーメーカーの最初の試作車は衝突安全性を定量的に検証するために作ることが多いですし、しっかり意図を持って剛性が設計されています。
評論家はどうせ適当な意味でしか剛性というワードなんて使ってないんだから、揺れが小さいとか、乗り心地がいいとか、しっかりしてるとか、その感想を素直な言葉で述べるべきです。変に頭良い感じを強調してバカ丸出しになってるとしか思えません。
メーカーが剛性を○%アップしたって言ってるやん
とおっしゃる方もいるでしょう。たしかにそのような宣伝をするメーカーもいます。評論家がダメなのはそれらを無条件に間に受けることです。それらの記事で剛性アップを示す客観的データを見たことがありません。それを引き出すのが評論家の仕事ではないでしょうか?と言っても本当にモデルチェンジの度に数十%も剛性が上がっていたら、今頃複利効果でやばいぐらい剛性上がりまくってますよw 宣伝文句を盲目的に真に受けるのはやめてほしいです。
メーカーがアップしたって言ってるし、たしかに剛性よくなった気がする
とリピートしているだけでは評論家の存在価値はありません。
②ステアリングを切った分だけ曲がる
ドイツ車に信仰の深い評論家によく用いられるフレーズです。「ステアリングを切ったぶんだけ曲がる」と仰々しく表現していますが、自動車として至極当然の機能ですよ。切った分だけ曲がらなければ、それは不良品です。しかもリコール間違いなし。自動車評論家にはぜひ「ステアリングを切ったぶんだけ曲がらない」モデルの具体例を示していただきたい。
さも当たり前のことを宣伝が得意な評論家が書くとこのような表現になります。(参照)
面白いのは、スカイアクティブ・ビークル・アーキテクチャーでは、タイヤに対する考え方も改められている点だ。従来、タイヤというものは操縦安定性の向上を理由に上下バネを硬くしてきた。しかし、今回は逆に柔らかくして、タイヤが本来持つ振動の吸収や減衰の機能を生かしているのである。サイドウォールを指で押して柔らかいと感じるほどのタイヤにくら替えして、果たしてさらなる人馬一体がうたえるものだろうか? そう疑ってみたものの、操れば確かにそのフットワークは軽快かつ小気味よく、車両は思った方向に思っただけ向きを変える。そのポイントは例のGベクタリングコントロールである。これを活用して、操舵時には荷重移動を積極的に使い、タイヤの力を遅れなく発生させた結果だそうだ。
もはや何が言いたいのかよくわかりません。ここまで行くとオカルトオーディオと同じ世界です。
色々と修飾語をつけて講釈を垂れているものの、要約するとアウトプットは「車両は思った方向に思っただけ向きを変える」ということです。そんなものは事故車でも無い限り、どんな車でもできることです。よくも当たり前のことでここまで尾ひれをつけて文章書けますね。中身が薄っぺらすぎる。
こうした意味のない記事を見抜くポイントは「アウトプットに着目すること」です。つまりは新技術と主張するものによって何がもたらされたのか?それを冷静に捉えれば、宣伝記事はすぐに見抜けます。
上述の記事のように、技術的側面でアピールするものがない場合に「思ったとおりに動く」だとか「剛性が高まった」などと言う抽象的な表現が多用されます。覚えておいてください。
たとえばMIRAIやシビックのCVCCエンジン、初代プリウスなど、技術革新があるものはそれだけで記事になるのです。意味不明で抽象的な表現は必要ありません。
結論:自動車レビューは事実だけに着目するとよい
自動車評論家は褒めるところが無くなるとすぐに抽象的な表現を持ち出して褒めちぎります。そうしないと次の試乗を回してもらえませんし、記事や動画の尺も足りませんから仕方ないのかもしれません。「道路の段差を超えてもうまくいなす」とか毎度言ってますよ。高速道路を直進してつなぎ目を超えるなんてN-BOXですら突き上げ感少なく乗り越えます。大した変位じゃないんだし、サスペンションのストローク範囲でしょうから剛性なんて感じる余地もありません。こうした抽象的な表現は無視に限ります。
一方で全てのレビュー動画や記事が役に立たないわけではありません。実際に新型車の内外装のデザインを宣伝用のカメラではなく、その辺のカメラで事実を伝えてくれるのは脚色が無いためとても有益です。また、使い勝手や内装の質感をレビュワーの好みを交えて感想を述べてくれるのは見ていて楽しいですよね。そうした事実を素直に述べられているところは大いに参考になると思います。
ダメなのはわかった風を出したいがために抽象的な指標で「技術的に」優れていると主張する評論家です。我々読者は彼らの主張に騙されてはいけません。自分自身が気に入らない自動車を購入して不幸せになる可能性もあるし、そうした行動が彼らのクソ記事を量産する原動力になってしまうからです。